今年の流行語に「KY」というのがある。「KY」は、ぼくらでは「危険予知」のことをいう。KY活動とかKY訓練とかいう。それはそれとして、今の「KY」は「空気を読めてない」とか「空気を読めよ」ということらしい。このあいだの有馬記念でも勝ったマツリダゴッホの蛯名正義騎手が「“C(超)KY”ですいません」と言ったとか。
今の若いひとたちの間で、空気を読めないと仲間はずれにされたり、イジメにあうなんてことがあるのだそうだ。
ぼくらの世代は「空気」というとすぐに山本七平の「「空気」の研究」を思い出す。日本の社会がもつ「空気」があの戦争を引き起こしたという指摘でベストセラーになった。
こうした日本人の特性は昔から同じようにあるし、「空気」は人々の行動を支配する大きな力であることも変わらない。でもぼくらの時代はむしろ「空気」を読むな、「空気」を破れみたいな、それこそそういう「空気」のほうが強かったような気がする。だから、今の風潮をみると時代は変わったなあと思う。
そこらあたりの変遷とその原因やどうしたらいいのかについて、宮台真司のブログに書いてあるのでそれらを引用しながら考えて見る。
こうした「空気」をめぐる議論も隔世の感があるというほかありません。確かにそこに「空気」を感じればそれに支配されるというのは、今も変わりません。しかし今日的な問題は、そもそも「空気」を感じるか感じないかにおいて分岐が生じてしまうということです。 ここには二つの要素があります。一つは、知らずに空気に支配されるのでなく、進んで空気に支配されろという命令の奇妙さです。もう一つは、そうした命令が意味を持つ程度には空気を感じとれない人間が増えているとして、それはなぜかという奇妙さです。
そして、どうして空気を感じとれなくなったかの理由については、“共通前提の崩壊”であると言っている。これってわかりますねえ。昔は何となくわかっているあるいは常識みたいなものが共通理解としてあったわけで、そういうものがなくなってきたというのが今日の問題なのだろう。だから、
ノリによって疑似的な共通前提をその都度作り出さないとコミュニケーションを前に進められないこと。ここから「空気を読め」という奇妙な命令文が生またのです。かくして空気を壊すことへの異常なほどの忌避や、キャラを演じることへの執着が生まれてきたのです。
じゃどうしたらいいんだというと、宮台は「新今こそ、新しい知識人が必要」と述べ、
知識人とエキスパート(専門人)は分けて考えるべきです。知識人は公的貢献への意欲ゆえに社会的な全体性にアクセスできる存在です。これに対してエキスパートは、専門領域に通暁しますが、社会的な全体性にアクセスする動機づけも能力も持たない存在です。社会システムが複雑で流動的になれば、全体性を参照するのは困難になるので、どこの国でも知識人が減ってエキスパートが増えます。それでも、エキスパートだらけで知識人が皆無というのは日本的現象です。全体性を参照する公的貢献動機の枯渇が問題化しています。
全体性を知らないエキスパートからは「善意のマッドサイエンティスト」が多数生まれます。自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに鈍感なエキスパートが、条件次第では社会に否定的な帰結をもたらす技術をどんどん開発していきます。
バイオの領域でもIT(情報通信)の領域でも、人間であることと人間でないこととの境界線を脅かすような研究が進みつつあります。そうした社会であればこそ、社会的全体性を参照できるような知識人、私の言葉でいえば「新しい知識人」が必要となるわけです。
新しい知識人は、大衆を導くというかつての課題とは違った課題に取り組む存在です。エキスパートが社会的全体性を弁えないがゆえに「暴走」してしまう可能性を、事前に抑止するような役割を果たす存在です。そうした存在がこれからますます要求されるべきです。
と言っている。これに対して池田信夫のブログでちょっと違う意見が書いてあった。
しかし私は、これを解決するのが宮台氏のいうような「新しい知識人」だとは思わない。そんな知識人の特権性は、マスメディアの没落とともに失われたからだ。かといって「群衆の叡智」なるものも、今のウェブの混乱状態をみればわかるように、当てにならない。むしろ可能性は、空気の読めない若者が増え、会社にべったり埋め込まれた水利構造を脱却することにあると思う。今はフリーターとかニートとかネガティブなとらえ方しかされていないが、彼ら団塊ジュニアが本気で親の世代に「戦争」を仕掛けることが、私の希望だ。
この議論はすごくおもしろいし勉強になる。なぜかというと、その中でぼくが昨日のエントリーで言った若い人たちに「大きな可能性」を感じたことが含まれているからである。
それは、宮台が言っている「共通前提の崩壊」がネット上で復旧できるかもしれない、そこで新たに形成された共通前提のもとで空気を読みながら潜在的排他世界ではない真のコミュニケーションが図れるかもしれない。
そして、「自分が開発したものが社会的文脈が変わったときにどう機能し得るかに“敏感な“エキスパート」や「社会的全体性を参照できるような”プログラマー“」が輩出されるかもしれない。そうしたら、池田の言う「戦争」をしかけられるかもしれないのだ。そういう可能性を1981sの”ノリ”に見たのである。
