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相撲と野球

ぼくが小学校4年生の時に家にテレビが来た。昭和34年の3月に今の天皇陛下が皇太子の時の結婚式がテレビ中継されて、ぼくの家には近所の人がその番組を見に来て、雨戸を締めて暗くしてみた記憶が残っている。

ぼくも家にテレビが来る前は、よそのうちにテレビをよく見に行った。特にプロレス中継は近くの親戚の家に必ず見に行った。

家にテレビが来たときに最初に見たのが相撲であった。時は、栃若時代で、栃錦、若乃花の両横綱が全盛であった。忘れもしない最初にみたのは栃錦のお尻であった。

当時の相撲は非常に人気があって、個性的な力士もたくさんいて、ぼくのお気に入りは「潜航艇」というあだなの岩風である。筋骨隆々のからだで下からもぐりこむ戦術で幾多の名勝負を展開した。その他にも、水入り相撲の出羽錦、技能派の信夫山、成山、大量の塩を撒く若秩父、ちょこんと仕切る鳴門海とか、今の高見盛のような個性派ぞろいであった。ぼくらはそれを真似て相撲をとった。

今は相撲を見ることはないが、当時はテレビにしがみついて見ていたが、それがちょうどテレビ的であったということは確かだ。

もう一方の野球も燃えた。昭和33年に長島茂雄が巨人に入団し、翌年の天覧試合で村山からさよならホームランを打ったのをテレビで見ている。

このころのプロ野球もまた個性的な選手がいっぱいいてぼくらを楽しませてくれた。金田対長島とか、西鉄の野武士軍団、40勝投手の「神様、仏様、稲生様」や杉浦、権藤。打者では、まだ川上がいた。あげたらきりがないので、ぼくが応援していた大洋ホエールズの話を少し。

当時の大洋ホエールズの本拠地は川崎球場であった。1978年に今の横浜スタジアムに移るまでこの狭い球場で試合が行なわれ、子どものころはここに見に行ったのである。

そのころは、秋山、土井のコンビが活躍していたが、万年最下位であった。そしてあるとき忘れもしないことが起きた。試合が終わって球場をあとにしようとしたとき、ちょうど選手が球場から出てくるところにでくわしたのである。そしてそばに行って握手でもしてもらおうとしたと思ったのだが、いきなり知らない若い選手に抱きかかえられてぼうや大きくなったら野球の選手になれやというようなことを言われ、頭をなでてくれたのである。

もう頭が真っ白でボーっとしていたら、何という選手に抱かれたかわからないままでいた。一緒にいた親父に今の選手は誰と聞いたら、今の選手は「島田源太郎」だと教えてくれた。

おそらく、入団したばかりであったと思うが、それからはもちろん島田源太郎のファンになって応援した。
そして、1960年に奇跡が起こった。三原監督を迎えたわが大洋ホエールズは万年最下位の汚名を返上すべく、あれよあれよで優勝してしまったのだ。日本史シリーズでも大毎オリオンズを破っている。その年、島田源太郎は完全試合を達成し、18勝をあげ優勝に大いに貢献したのである。

ぼくは、小学校時代はもうずっと野球少年であった。実は何を隠そう、南海ホークスの野村克也のファンでもあった。ユニフォームらしきものを作ったときに付けた背番号はもちろん“19”であった。しかし、中学の後半になってサッカーを知ってしまってからは、野球から遠ざかったのである。
 

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2008年12月06日 09:31に投稿されたエントリーのページです。

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