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遊びを工夫した

ぼくたちの子どもころというのは、もちろんテレビゲームもなかったし、家の中でするのはトランプか花札、ダイアモンドゲーム、かるたといった類で、もっぱら外で遊ぶことが多かった。

外といっても遊園地みたいなものがあるわけではなく、遊び道具は自分たちで工夫する。そのときの必需品は、「肥後の守」のナイフである。折りたたみ式の小さなナイフなのだが、これが万能でいつもポケットに収まっていた。本当は、もっと大きなサバイバルナイフのようなものがほしかったのだが、それは、大きなお兄さんしかもてなかった。

それを使って、竹とんぼややつでの実を玉にした鉄砲とか、ゴムパチンコや木刀や弓矢などなどいろいろなものを作って遊んだ。

一番すごくて危険だったのが、「2B」を使った鉄砲だ。2Bというのを知っている人は少ないと思う。ただぼくらの年代ではそれで遊んだ人も多いのではないだろうか。爆竹のような花火で、短い鉛筆のような先っちょい火薬が塗ってあって、それをマッチ箱でこすると発火し、いずれ爆発する。これでいろんなことをする。かえるの腹に入れるなんて残酷なこともした。

その2Bを片方をふさいだ細いパイプ(テレビのアンテナをよく使った)に入れ、筒先にパチンコ玉を入れて爆発させると鉄砲になる。これは危なかった。やけどしてやめた。

めんこ、駒、ビー玉、けんだま、じっくい、缶けり、竹馬などなど道具を使った遊びも数多くある。これらもいろいろな工夫をしながら遊んだ。工夫しなかったのは、フラフープとホッピングくらいかもしれない。

紙飛行機や凧もよく作ったものだ。紙飛行機は簡単に作れる小さなグライダーから、ゴムで動くプロペラ機までいっぱい作った。プロペラ機はあまりにうまく作りすぎたので、作って最初にとばしたとき遠くに行く過ぎて見失ったこともある。

船も作った。これもゴムで動く潜水艦やろうそくで動くぽんぽん船だ。

スポーツ系の遊びもよくやった。野球は人が集まらないと三角ベースである。ボールやバットもないと布を丸めて糸でぐるぐる巻きにしてボールにし、バットはその辺に落ちていた木を削ってつくった。そして、当時はそんなことができる空き地があったのだ。

家の庭でやったのは、ピンポンで卓球台なんかないので母親が洗い張りに使う張り板を2枚並べてやるのである。これはけっこうはまって、中学の最初の部活は卓球部だった。この張り板はいろいろなところに使った。筏にして川を探検したこともあった。

近所にお兄さんがいて、その人と一緒にいろいろなことをやった。リレーのバトンを作るのだ。何色にも色を塗ってきれいに仕上げ、たすきも作ってみんなでリレー大会をする。場所は普通の道路だからおもしろい。もちろん自動車がくると中止だが、めったに通らなかった。そのお兄さんは中学を卒業すると床屋さんの学校にいき、丁寧な仕事をする職人さんとなった。

当時は路上で遊ぶのが普通だったが、徐々に車の通行量が増えてきていた。そんなとき、近所の床屋の息子のかっちゃんが自動車に引かれて死んでしまった。庭でキャッチボールをしていて、ボールが道路に転がったのを注意もせずに飛び出して、ちょうど運悪く車と衝突してしまったのだ。ものすごいショックだったが、それから路上で遊ぶことがだんだん少なくなった。

まだまだいくらでも当時の遊びが出てくる。書きながら、ずいぶんといろいろなことを工夫しながらやったなあという感慨が深い。人間は、何もなくても、親から与えられなくても自然と自由に飛びまわれる遊び場と少しの道具があれば楽しく過ごせると思う。

今はそれがない。ゲームはあるがそれだけのような気がする。これじゃあ、遊ばされているようで主体性がないのではないだろうか。
 

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2008年12月09日 10:08に投稿されたエントリーのページです。

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