生まれたときが終戦直後であるということもあって、まず最初に浮かぶのは食料難ということだろう。いつも腹が減っていた。そしていつも芋を食べていた。サツマイモである。
サツマイモは実にいろいろな食べ方がある。煮ても焼いても蒸かしてもてんぷらでも、いもけんぴでも乾燥いも、何でもOKだ。じゃいまでも好きかと言われるとそれが今は全く食べないうちの嫁さんから人間一生で食べられる量がきまっているから、お父さんはそれを超えてしまったのねと冷やかされる。
ついでに少し意地汚い話だけど、食べ物の話を続ける。夕飯の風景を言ったほうがいいのかも知れない。まるで三丁目の夕日であるがご容赦の程を。
まだぼくの家にはかまどがあった。べつに特別ではなく、どこのうちもそうだった。当たり前の話、かまどは薪で火をおこす。ということはまず薪作りから始まる。そのころは薪が売っているわけではないから、自分たちで薪割りをする。当然風呂も薪だからその分も割るから重労働である。
こんなことばかりやっているから、その当時の大人はやわいヤツはいなかった。もちろん腹いっぱい食べられないのでふとっているやつはいなかったが、やせていてもたくましかった。
ほんとに何もなかった。でもいろいろな工夫をした。野性のものも食べたりした。せりやよもぎ、つくし、野蒜、ふきなどなどである。
家の食卓とはいかないが、こどもたちは、あけび、栗、椎のみ、桑のみ、キイチゴ、グミ、さくらんぼなどおやつがわりによく食べた。極めつけは、ニッキだろう。みな知らないだろうが、この木の根っこが売っていたのだ。その木の根っこをかじる。買うのがいやだから盗みに行く。この間本家の法事でその盗みにいったうちの子が来ていたので、50年ぶりにあやまっておいた。
ぼくは、こういうのもなんなのだがもともと甘党である。だから楽しみはもうぼたもちとお汁粉なのである。お彼岸や何か特別なことがあると出てくる。昔は、甘いものに飢えていたから、それこそギブミーチョコレートである。
明治の板チョコと森永のミルクキャラメル、ハリスのフーセンガム、くじであたるとまたもらえる5円の紅梅キャラメルである。マーブルチョコはもう少しあとだ。たまに、親父が横浜中華街から買ってきてくれた月餅とあぶら餡の中華まんを目の前にしたときはひっくり返るほど喜んだ。
でも食卓に並ぶものは貧弱でもみんなで一緒にちゃぶ台を囲むときは楽しかったななあ。
このころのこどもたちは、家の手伝いをした。ぼくらは巻き割りもそうだし、いつも夕方にかえってこいと声がかかると。一斉に帰るがそのあとはみんな買い物に行かされる。ぼくがいやだったのは、おやじの酒を買いに行かされることで、だからいまでも自分の酒は自分で会に行く、あまり自慢にはならないが。
鎌倉の長谷にコロッケで人気の肉屋「宮代商店」があるが、その昔はぼくらの家の近くにある唯一の肉屋であった。そういえば、八百屋も魚屋も牛乳屋もクリーニング屋も床屋もみんなひとつしかなかったなあ。競争がない。でも満足する。そんな世界である。
話はそれるが、そうした店屋の子どもたちともよく遊んだ。八百屋のカズちゃん、自動車にひかれて死んでしまった床屋のかっちゃん、クリーニング屋のカズミちゃん、豆腐やのけんちゃん、わーセピア色の世界だ。今の子がじいさんになったら何色になるのだろう。すくなくともデジタルは、色があせないから、セピア色ではない。
食べ物は本当に少なかった。ぜいたくなものはなかった。同じくらいの年代のひとが、スキヤキは豚肉だと思ったという話をしていたが、豚肉ではなかったが、脂身の方が多い牛肉であって、そのおかげでぼくはしばらく牛肉が食べられなかった。
そしておかすがないと工夫したものだ。となりのおばさんがいいものができたから食べさせてあげるよといってくれた。これは「磯辺ライス」というんだといっておもむろに出してくれたのをみたら、何のことはないご飯に海苔を細かくきざんで醤油をかけたっだけであった。そんなたくましさもあった。
食い物の話はきりがない。ここではこんなところにとどめまた給食のことやら別のタイトルで書いていきます。
