この年はなんと言っても「Y2K」であろう。いわゆる2000年問題である。これはずいぶんと脅された。ニュージーランドではもはやこの問題で工場で事故があったとか、いろいろと煽り立てられた。
社内に対策委員会をつくり、事務用コンピュータから制御用コンピュータ、あるいは組み込み型システムまで網羅的にやった。
結局、ホストはプログラムをなめて直していった。困ったのは、工場のプラント管理のコンピュータでまともな対策をすると大金がかかる。そこでどうしたかというとコンピュータ内の時計を戻したというようなトリッキーなこともやった。非生産的ところに大きなお金をかける気がなかった。
会社によっては、2000年問題のためにERPにリプレースしたとかいう話もあったが、大きな投資をせずに乗り切った。もちろん、1999年の大晦日から2000年正月までは泊り込みで徹夜で監視した。
社長も陣中見舞いに来てくれた。ほとんど何もなく年を越したのである。全国的にも大過なかったのである。あの騒ぎはなんだったのだろうか。
そして、この年から分社化の検討に入った。機能分社という言い方で、間接部門を本体から切り出して子会社化することである。対象となったのは、物流、設備管理、試験分析、人事総務サービス、そして情報システムである。
こうした場合、最初の方針や理念が大事である。すなわち、なぜ分社化するのか、その目的は、どういう事業ドメインにするのか、プロフィットセンターなのかコストセンターなのかといったことである。
ここの軸がぶれないように気をつかった。何より問題は人の問題で子会社に出向していく人たちの処遇の問題やモチベーションの維持,評価基準などをどうするのかである。
もうそのころのIS部門はかなり専門化しており、また本体との人材の交流も少なくなってきて、その道で生きていこうというひとも少なくなかった。そうした人にとっては分社化は覚悟を決めるきっかけになるが、そうでない人にとっては悩ましいことになる。そこは、本体との行き来は残すことで分社化に踏み切ったのである。
もうひとつ悩ましかったのは、プロフィットセンターかコストセンターかである。親におんぶしてもらわないようにできるかということである。これは簡単なことではない。
しかし、プロフィットセンターを目指さない分社はありえないと考えた。何よりも、従業員のモチベーションがあがらないという問題が残る。利益を出さなくてもいいという会社はあるのかという思いで、プロフィットセンターとして出発することにした。
しかしながら、すぐに外に行って利益をだすことなんてできないから、当面は親からのミルク補給で力をつけ、何年後に自立するという絵をかいたのである。それは、親会社依存率を下げていくことを意味している。
あまたの情報子会社はこの親会社依存率を下げる過程でかならず大きな谷にぶちあたる。簡単にいえば、自立するための教育投資やインフラ整備といったリソース確保のコストが高くなり急激に収益性が悪化するのである。その谷を乗り越えられるかが勝負である。
でもだからといって親会社の仕事だけをやっていても面白くない。そのときのロジックは、外で儲けられないような技術・サービスを親会社に提供したら、結局コスト高ということだから、そんなことは親は望まないはずだ、というものであった。
まあ、そんな議論を繰り返しながら船出した。この分社化はただ分社したわけではなく、その会社が強くなるためのいくつかの施策を考えていたのである。この話は、2000年のところでする。
