落語論というようなものはないといったことも書かれている名辞矛盾的な本「落語論」(堀井憲一郎著 講談社現代新書)を読む。落語というのは、型が決まっているわけでもなく、理屈があるわけでもなく、話す人と聞く人のその場限りの作品でもある。だから、落語論というものはないと思う。
とはいえ、この本は、本質論、技術論、観客論の3部からなっているが、その中に書いてある“落語とは○○である”という言葉を採録してみる。
落語とは、ライブのものである。花火と同じだ。
落語は、言葉の中には存在していない。歌である。だから、繰り返し聞くものである。
落語には、タイトルがない。キャラクターも存在しない。落語の芯は、ストーリーではない。セリフである。
落語の根本は、お話にはない。場にある。観客も落語を構成する大きな要素である。
落語は、普遍性を拒否する。所詮ペテンである。
落語は、都市にしか存在しない。近代的発展とは別の世界に存在している。
落語は、和を求める演芸である。
落語は、きわめて個人的な体験である。
落語は、業を肯定している。
落語は、遊びであり、道具である。
おおむね、こんなことについて書いてある。確かに、落語をテレビやDVDで見たり、CDで聞いても、実際に寄席で生身の話を聞くのとはぜんぜん違う。その時に立ち会っていないと、同じものをニ度と聞くわけにはいかない。
また、落語が歌であるというのは実感として思う。先日、柳家小三治の一門会で小三治がフランク永井の歌を唄ったのだが、それがうまいのなんのって、非常にいい声で聞き惚れてしまった。そのういう人がしゃべる噺が心地悪いはずがないのだ。
そして、本を読んで気がついたのだが、落語ってタイトルがるわけでもなく、しかも人の名前も固定されていないんですね。寄席に行くとどんな噺があるのかわからない。そして、登場人物のキャラクターもあるように思えるがないのだ。
結局、目の前でしゃべっている噺家になんだかわけのわからない世界に引きずり込まれて、何となく、この世を面白おかしく過ごせるような気がしてくるのだ。てなことで、本を読むより実際の場に足を運ぶのがよろしいようで。
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屈指のひどい出来
落語も講演も
批評者へのアジテーション
野暮を承知で「落語」を語る
堀井さんによる、落語にあてたラブレター

