昨日も書いたとおり、正月はもちろん仕事もする気にはなれなくて、さりとてテレビはスポーツ番組だけだし、要するに時間があるのだ。なのでこれまで見落としてきていて、そんなに強く観たいわけではないが気になっている作品をひろってみる。そんな作品のいくつかについてまとめて書いておくことにする。
【アキレスと亀】
北野武監督作品はなぜかあまり好きになれない。なぜかと言われてなかなかこうだからとは答えられない。「アキレスと亀」もそうしたあまり好きになれなかった作品であった。
アキレスと亀というタイトルはゼノンのパラドックスで有名な話から取っているだろうから、映画では、子供の時からずっと絵ばかり描いてきたが、一向に芽が出ない芸術家が主人公なので、どうもその絵描きがアキレスで、いくらがんばっても追いつけないということを言っているのだろうか。
じゃあ、亀って何なのだろうか。そうよく分からないのだ。あまりくどくどと説明されてもこまるのだが、逆にどういうことかちっとは説明してくれないとわからないということもある。そうなんだ、北野武はそこが問題なのではないだろうか。
どうも、この“ぶっきらぼう”なところがいけないように思える。それは、彼のテレビやなにかの発言を聞いているとわかる。言っていることがはっきり全部を言わないのだ。途中でぼそっと言って最後までちゃんと語らないのだ。自分ではわかっているかもしれないが、聞いている人は“感じ”でしか理解できない。
これと同じように、映画もちゃんと語っていないで、監督だけが“そんな感じ”のものを映し出しているように思える。この映画でも、こども時代から青年期を経て中年に到るまでそれぞれの物語をつないでいるが、全体のストーリーが見えてこない。
こうしたちぎるような映画は若い時にはそれなりのパワーがあるのでおもしろいが、やはり歳を食ってくるとその力がなくなってくるので、丁寧にしぶく作ることも大切なのではないだろうか。だいぶ監督批判になってしまったが、同じ年代なので自分にも言い聞かせているのである。
【陰日向に咲く】
劇団ひとりの原作を映画化した「陰日向に咲く」(平川雄一朗監督)は、その原作がベストセラーになったこともあり幾分の期待を持って観る。だが、ものの見事に裏切られた。
ぼくは原作を読んでいないので、原作との比較でどうのこうのとは言えないが、前から言っているように、映画になったとたん原作は関係なく、映画のできを評価すればいい。だから言うのだ。これは映画になっていない。
そもそも、何がどうなっているのか、誰と誰がどういう関係なのか、何を言いたいのかが全くわからない。観終わってからDVDを何回か見直してもわからない。しょうがないから、映画評を見て、ああそういうことだったのかと気がつく。もうこれだけで失格だ。
どうも、東京で暮らす陽のあたらない9人が登場し(と書いてあったが、それがだれなのかもわからない)、それぞれ一生懸命生きている姿を描いたらしいのだが、ぜんぜん関係ないアキバのオタクが何人かでてきたりするが、これがまた主ストーリーとは全く関係しない。なんじゃこりゃあ。
そして、きわめつけは、岡田準一扮するギャンブルにはまって借金地獄に陥っている観光バスの運転手と母親と漫才コンビを組んでいた父親を探す女性弁護士が、偶然浅草で出会うのだが、そのあとの展開がこれまたあり得ない偶然を積み重ねていくわけで、全くリアリティもないし、観客をバカにするなと言いたくなる。
いいですか、ネタバレなのですが、これは言っておいた方がいいので言っておくと、その借金男と女弁護士が女の芸人であった父親を一緒に探すことになるのだが、なんと、その父親がホームレスになっている。ところが、その借金男の父親が街で偶然見つけたそのホームレスにあこがれて、そのホームレスのところで一緒に暮らすのである。ありえねえー。
さらに、借金男が困ってオレオレ詐欺をするんだけど(これも映画では何をしているのかさっぱりわからなかった)、その相手の老女がなんとそのホームレスになっている父親が弁護士女の母親と上がっていた舞台で踊っていた踊り子で、その父親があこがれた女だったのだ。ありえねー。
これだけでも、いくら作りごとだといっても、トンデモナイでしょ。
【西の魔女が死んだ】
前2作をあまり評価しなかったので、よかった作品も加えた方がいいと思ったわけではないが、長崎俊一監督の「西の魔女が死んだ」は、予想以上に面白くいい映画であった。
イギリス人の祖母と登校拒否の孫娘とのひと夏の暮らしを描いた作品である。その祖母は、清里高原とおぼしき森の中で、自然とともとに一人で暮らしている。中学生になる孫娘は、その感受性の強さから、学校や友達となじめず登校拒否を続ける。そこで母親が夏にその子を連れていって、一緒に生活させることで立ち直らせたいと考えるのである。
そこから、祖母と孫の生活が始まるのだが、二人で会話する中で少しずつ少女は成長していく。この祖母が日本人のおばあちゃんではないところが、肝のような気がする。だから、魔女と呼ばれたおばあちゃんに私も魔女になりたいから、どうしたらいいか教えてという場面で、それはちゃんと朝早く起きて、規則正しい生活をして、それで大事なのは自分で決めることだと諭す。
これは当たり前のことなのだが、どこか乾いた対応で西洋的な感じなのだ。そして、おばあさんは、この娘をやたらほめるのである。結局、自然の中でごくごく日常的な毎日をきちんとこなし、自分の存在の意味を悟っていくというオーソドックスな営為を異国の祖母が教えているのである。
そして、死を迎えて、さらにまたそこでもメッセージを発信していく。今の子供たちの足りないことは、こうした人生を生き抜いた老人たちとの交流とその人の死を見送るという経験ではないかと思う。そんな忘れられた関係性を喚起しているように思えた映画であった。